
■AIR JORDAN 1■
1984年、NBAドラフト。シカゴ・ブルズに3位で指名されたマイケル・ジョーダンにNikeは接近。
当時Adidasの熱烈なファンだったジョーダンを口説き落とすために用意した条件は、ルーキーシーズンに自身のシグネーチャーモデルを販売するという、過去例の無い条件。そして年間50万ドルの5年契約と'Air'のついたシューズの売り上げの一部を契約金以外の報酬として支払うという破格のもの。
渋るジョーダンを説得し、契約にこぎ着けたのは良いが、急転直下の事だったため、すぐにシグネーチャーモデルをリリースすることが出来ず、デビュー後しばらくは「Air Ship」を中心とした様々なモデルを着用。デザイナーはともかくフロアとの接地感を重視し、動きやすさを実現してくれ、というリクエストを受け開発。
ポディション別にシューズを開発する、という概念が無かった時代に、動きやすさを重視したガード向けのスペックで開発された経緯は、その後、様々なブランドの商品開発に影響を及ぼすこととなります。
開発が終わり、やっとのことでジョーダンが着用できるようになったものの、またもや波乱を巻き起こします。
黒と赤をデザインの中心としたカラーリングが、当時の「白を基調としたチームカラーでシューズは統一しなければならない」というNBAの規定に抵触。
毎試合5000ドルの罰金を科せられることになり、着用を続けてほしいNikeはこの金額を肩代わり。
それを逆手にとって、「10月15日、ナイキは画期的なバッシュを開発した。10月18日、NBAはこれを試合から追放した。だがNBAは君たちがこのシューズを履くことを禁止できない」というプロモーションを展開。
1985年に販売開始し、販売後、このプロモーションのかいもあって、約3ヶ月程度で70万ドル以上の売上を上げたものの、その後想定をしていたほどの売り上げには至らず、在庫の山だったと言われております。
ワゴンセール品になってしまったAir Jordan 1を引っぱり上げたのは、当時のスケートカルチャー。
薄めのソールがスケートと相性抜群で、安い金額だったため、ヘビーユーザーに直結。
違った意味での市場へ食い込みを見せて行きます。
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